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2010年1月21日 (木)

朝鮮で聖者と呼ばれた日本人 重松髜修(まさなお)物語

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田中秀雄=著

46判上製/304頁/定価2100円/2010年1月

日本の朝鮮統治の歴史を公正に評価するための手がかりとなる力作評伝!

●日韓に「感動的な関係」があった
 今年、二〇一〇年は日韓併合百年に当たります。本書はこの日本の統治時代に朝鮮金融組合理事として、疲弊した農村の振興に尽力した重松髜修の半生を丹念に追った評伝です。
 明治二十四年、愛媛県に生まれた重松は、旧制松山中学を卒業後、明治四十五年に東洋協会専門学校(拓殖大学の前身)の朝鮮語科で学び、大正四年、朝鮮総督府の官吏(土地調査局)となります。その二年後、「感激性のある仕事がしたい」との思いから、農民のための金融機関、朝鮮金融組合に移り、理事として平安南道江東の寒村に赴任。大正八年に起きた万歳騒擾(三・一独立運動)のさいに被弾し右足が不自由になるも、私財をなげうって近代的養鶏を指導し、養鶏によって得た卵の売上を金融組合に貯蓄させ、貯めたお金で耕牛を買うという原則をつくります。牛を買うだけでなく、その貯金は農地購入や貧困家庭の就学資金にもあてられ、ついには貧しい小作農が奮起して三十七歳にして医者になることまで起きます。当初はかたくなで、足が不自由な重松を嘲笑することもあった村の人々ですが、彼の熱意がしだいに理解されるようになり、やがて彼は「聖者」と仰がれ(二〇九頁)、昭和十一年三月、村人は感謝の意を表するために彼の頌徳碑を建立します(二〇〇頁~)。
 台湾の荒蕪地を穀倉地帯に変えたことから、地元の人々によって銅像を建てられたダム技術者・八田與一の名前は広く知られていますが、朝鮮にも人々に深く感謝された日本人がいたということです(ちなみに頌徳碑を建てられたのは重松ひとりではありません)。統治時代を評して「日韓にはかつて不幸な時代があった」といわれますが、重松の半生は双方に「感動的な関係」があったことを雄弁に物語っています。「後日談」の項で、重松の教えを受けたことがある人物(韓国有数のガス供給会社・大成工業会長)が、韓国に重松の業績を知る人がいないことを嘆いています。それは日本人も同様であり、日韓併合から百年を機に、この熱誠・無私の先人の存在を日本人自身が知ることは、両国が前向きな関係を築くうえでも実に意義深いことといえるでしょう。

●一面的ではない統治の現実
 日本による統治期間は三十五年ですが、重松は学生時代を含めて三十一年間を朝鮮で過ごしています。本書の意義はもうひとつ、重松の足跡をたどることで統治の現実の一端が見えてくることです。統治の施策として悪名高い「創始改名」。これに抗議して自殺する人がいる一方で積極的に改名した人もいます。重松の周辺では彼の薫陶を受けた二人の人が自ら進んで創始改名をしており、その受け止め方はさまざまだったことがわかります。そしてもうひとつ。重松はその抜群の知名度から戦時中、請われて「国民総力朝鮮聯盟」の実践部長となり、朝鮮の人々の徴用、徴兵にかかわることになります。重松は内地に徴用された労働者を慰問することもありましたが、その見聞録(『国民総力』昭和十九年八月十五日号)に記された彼らの暮らしぶりは、戦後にいわれ始めた「強制連行」の言葉から連想されるイメージとは大いに異なるものであることもわかります。日本の朝鮮統治の歴史はときに政治問題に発展するためか冷静な評価を下しにくいところがあるようですが、本書の登場で、より公正な検証が進むことを念願してやみません。
 終戦直後、聯盟実践部長の経歴から重松は牢獄に入れられます。しかしたまたま彼を取り調べた検事は、重松が与えた鶏で上級学校に進み、早稲田大学を卒業後、司法界に奉職していた「教え子」であり、彼のひそかな手配によって重松は混乱のなか、無事帰国することができました。『滝の白糸』思わせるこの奇跡的なエピソードを最後に付け加えておきます。

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