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2010年10月 5日 (火)

デヴィ・スカルノ回想記
――栄光、無念、悔恨

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ラトナ サリ デヴィ・スカルノ著

四六判/上製(ハードカバー)/372ページ/定価2,100円(税込)

 日本人でただ一人、外国の国家元首の妻となった女性、デヴィ夫人。
 おどろくほど率直に綴られた、その華麗かつ波瀾に富んだ人生のすべて。

○類まれな表現力で半生を綴る
 1959年、インドネシアのスカルノ大統領に見染められてかの地に渡り、日本人女性として唯一人、外国の国家元首夫人となったデヴィ夫人はいま、これまでに築いた幅広い人脈のもと、国際社会を舞台に人権擁護活動や慈善活動に多忙な日々を送っている。そのデヴィ夫人が今年古希を迎えるにあたり、あらためて来し方を振り返った回想記を執筆。若き日にフランス文学やロシア文学に傾倒したというデヴィ夫人は、自らのドラマチックな半生と、その間に味わった葛藤を類まれな表現力をもって包み隠さず綴っている。

○聡明で正義感の強い美少女
 日米開戦の前年1940年に、義侠心の厚い大工の娘として東京・麻布で生まれたデヴィ夫人は、美しいだけでなく、聡明な(学業成績はトップクラス)少女だった。正義感が強く、身体の不自由な母、気持ちの優しい弟の面倒を生涯みると決心し、中学を卒業すると難関を突破して千代田生命に入社。十代後半には〝世界の社交場〟と称された赤坂のナイトクラブ「コパカバーナ」でアルバイトをし、女優やモデルの仕事をして母や弟の生活費を得るかたわら、持ち前の向上心から日本舞踊を習い英語を勉強する。一方で結婚への憧れがあり、ディレンマを抱えていた1959年、対インドネシア貿易商社社長の「演出」でスカルノ大統領と「見合い」をすることとなり、思いがけず大統領夫人の道を歩むことになる。夫人はこのとき19歳だった。

 ○幾多の悲劇をのりこえる
 その後あいついで起きた母の死と弟の自死。スカルノからスハルトへの権限移譲に繋がった(いまだ謎の多い)「9・30事件」とその後の動乱。幼い娘を連れてのパリでの亡命生活。スカルノ大統領の失意のうちの死。スハルト一族との係争。大統領夫人となって以来のデヴィ夫人は幾多の悲劇や困難に遭遇し、そのつど自身の才覚一つを恃みとしてこれをのりこえてきた。しかも口絵写真に見るように、華やかであり続け、快活さを失わなかった。その強靭な精神力にまずは圧倒される。

○スカルノ大統領との〝同志愛〟
 当初、デヴィ夫人にはインドネシアに関する知識は殆どなかった。しかし、真の自立した国家づくりをめざすスカルノ大統領の無私の姿に共鳴し、以後、陰に陽に大統領を支える。西イリアン奪還闘争やマレーシア連邦粉砕闘争を、はらはらしながらも〝同志〟として見守り、インドネシアを訪れた池田勇人をはじめとする日本の政財界人を接待し、大統領の外遊にも同行した。インドネシア初の救急病院建設のために奔走し、大統領に仇なす日本人ビジネスマンを排除するために児玉誉士夫、大野伴睦、河野一郎に直談判したこともある。9・30事件では危険をかえりみず軍と大統領のあいだを取り持った。そんなデヴィ夫人は事件後、いちはやくスカルノを見限った日本政府、駐インドネシア齋藤大使、時の佐藤栄作首相への怒りを隠さない。大統領の死去後は、その遺産を〝私物化〟するスハルト一族とも戦う。
 大統領とデヴィ夫人は深い愛情で結ばれていたが、それはある意味で〝同志愛〟と呼ぶのがふさわしいかもしれない。インドネシアの若手研究者はデヴィ夫人を「大統領の政治的見解にも大きな影響を与える女性」と評している。大統領亡きあと、デヴィ夫人はいくつかの恋を経験し、その顛末もここに綴られているが、夫人のなかにはスカルノ大統領の志が変わることなく脈々と受け継がれている。

○戦後アジア史の貴重な証言
 折しもデヴィ夫人がインドネシアに嫁したのはアジア激動の時代であり、この回想記では、波瀾にみちた夫人の半生に重ねて戦後アジア史の一端を見ることもできる。さらに、現在に繋がる、インドネシアと日本、アメリカ、中国、あるいは〝第三世界〟の各国や北朝鮮との関係を知る上での貴重な資料ともなっている。

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